存在が、魅惑の、変身①/科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす2018第11回

 僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて考察している。


「存在の客観化」で、柿の木は、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものから、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えることのない絶対的なものにすり替えられるとのことだった。


 最初に確認したように、柿の木は、僕の身体が近づくにつれ、刻一刻とその姿を大きくし、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりすれば、姿を黒っぽくしたり黄色っぽくしたりするといったように、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものである。


 しかし事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学には逆に、柿の木は、離れた場所で、僕の身体が、行ったり来たりしようが、逆立ちしようが、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりしようが、何ら変わることがないもの、すなわち、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いになんて答えることのない絶対的なものであるとしか考えられない。


 そこで科学は柿の木をそうした絶対的なものであることにするために、僕が歩みよっている間に目の当たりにする柿の木の一瞬ごとの姿同士のあいだに認められるちがいを、主観的要素にすぎないと因縁をつけて、それぞれの姿からとり除き、僕の心のなかにポ〜イとうち捨てる。で、そのあと、それぞれの姿に共通して残る、たがいにちがいがひとつすらないものをこそ、ホントウの柿の木(柿の木の本性)であることにする。実にそうすれば、柿の木は僕が歩みよっているあいだ終始不変であって、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いになんて答えることがない絶対的なものであると言えるようになるというわけだった。


 でも、そのホントウの柿の木っちゅうのは、いったいどんなものなのか


 僕が柿の木に歩みよっているあいだ、柿の木が刻一刻と姿を変えるのを、みなさんに当事者になったつもりで何度もご想像いただいてきたけど、みなさんにお知らせしようとするとついモジモジしてしまってずっと言い出せなかったことがある。それは、柿の木に向かって歩み出す約束の時刻におくれそうになった僕が   僕が時間にダラシがないことをみなさんには是非ともかくしておきたかったと白状する   パラシュートを背負って空からその木のもとに降り落ちてきたということである。


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