これはすなわち、すこし言いかたを換えれば、こういうことである。柿の木、僕の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音らが、おたがい、「共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答え合っているのをご確認いただいた、ということである。
いま一度、ご想起くださるようみなさんにお願い申し上げよう。僕が柿の木に歩みよっているのを、僕におなりになったつもりでご想像くださっていたときのことを。
実に僕は歩みよっているあいだ中ずっと、柿の木、僕の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音らが、おたがい、「共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとにどう答え合うか、把握に努めていたんじゃなかったか。
だって、そうじゃないか。
僕は歩いている最中のどの瞬間でも、柿の木に、それまでどのように歩みよってきたか過去を把握していたと同時に、これからどのように歩みよっていくか未来を予想していた。
つまり、終始、どの瞬間でもつぎのことをしていた。
柿の木、僕の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音らが、おたがい、「共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、それまで一瞬ごとにどう答え合ってきたか、過去を把握すると同時に、これから一瞬ごとにどう答え合っていくか、未来を予想する(類推する)ということをしていたんじゃないのか。
僕が思うに、こうした未来予想をふだんみなさんは、状況把握とおよびになって、四六時中、程度の差はあれ、切れ目なく、生まれながらにおやりになる。
たとえば、道をお歩きになっているさい、車や自転車にお乗りになっているさい、仕事やスポーツをなさっているさい、人間関係をお考えになっているさい、情勢をお読みになっているさい、絵をお描きになったり蝶や花をめでたりしておられるさい、工作をしておられるさい、料理をしておられるさい、数をお数えになっているさい、ひとにお話しなさっているさい、ひとの話や音楽をお聞きになっているさい、片付けをしておられるさい、ひとのことを理解しようとなさっているさい、顕微鏡を覗かれているさい、といろんなとき当たりまえのように、みなさん、してご覧になる。
この把握がうまくやれないと、道でひとにぶつかったり、ひとの言動が理解できなかったり、情勢を読みあやまったり等してしまうと、ご経験上、みなさんよくご存じのはずである。
この「状況把握」こそ、存在を捉える捉えかたなんじゃないかと僕には思われる。
じゃあ、ためしにひとつ、柿の木を捉えるとはどうすることか、考えてみよう。先刻からみなさんにご想像いただいている、僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて。
柿の木を捉えるとは、柿の木が「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとにどう答えるか把握することである。柿の木を捉えるには、「他」であるところの、僕の身体や、太陽や、雲や、道や、他人の身体や、音や、への配慮は欠かせない。ところが、それらそれぞれもまた、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるとくる。
まさに柿の木を捉えるとは、柿の木、僕の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音らが、おたがい、「共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとにどう答え合うか把握する(「状況把握」する)ことに他ならない、というわけである。
柿の木にしか注意を払わないというのでは柿の木は捉えられない。
これとまったくおんなじことが身体にも言える。
(つづく)
〔補足〕
僕が柿の木に歩みよっている場面をみなさんにご想像いただきながら、柿の木、僕の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音らが、おたがい、「共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答え合っているのをご確認いただいたと申し上げた。
以前、僕の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音らが、「共にどのように在るか」という問いに一瞬ごとに答え合う、と表現していたのを、語弊があると考えて、改めたつもりだが、これで果して改めえたのやらどうやら。
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